私の経歴は介護から看護へ
憧れて選んだ看護師の仕事。2011年に東日本大震災で東方地方が災害に見舞われました。当時は私は施設で介護士として働いておりテレビで見る光景が映画で見るような感覚でした。車、家、船が大量に押し寄せる津波で流されておりとても恐怖したのを覚えています。そこで災害で人を助けている医師や看護師をみて私もこうなりたいと思い、20代半ばからですが社会人から働きながら看護師を目指すことにしました。病院で働きながら准看護学校に2年通学と勤務をし日々実習や試験、演習に追われる日々でしたがとても充実していたのを覚えています。その後は、正看護学校へ3年週に3、4日の全日の学校へ准看護師をしながら通学、勤務をしました。トータルで5年になリました。男性は看護学校は1クラス7−8人程度で1割いるかいないかの狭き門でした。
福岡で就職できなかった
なぜ福岡地元であるはずなのに東京で就職?おかしいと思いませんか?地元の福岡では九州中から若い大学卒の22歳の若い子達が福岡に集中しています。また、東京と違い派遣看護師の存在がほとんどありません。ほとんど常勤のみ。人が溢れているのです。そして病院の数が違いました。あの子はあそこのここに就職した。あの子はここ‥など、地名と名前が分かればどこに就職したかわかる状況です。そして自分が就職できる道は小さな病院のみ。選択肢はありませんでした。不採用通知ばかりが続き‥
東京で就職しました
そこで派遣会社を利用し東京での就職を決めました。東京では派遣会社を利用したのもあってか4者ほど内定をもらい、そこで今は6年目の看護師になりました。しかし、仕事はハードで、オペ出し、入院、リーダーなど責任がかかる仕事ばかりです。その分、少しずつできるようなる喜びと、地元福岡との年収が百万円ほど違うのでお金を貯めるのにはもってこいです。
自由に好きな仕事をしたくなった
なぜお金の勉強を始めたかは割愛します(長くなるので次回に)もともと経済に興味がありましたが、4年ほど前から月に数冊ですが本やYouTubeでお金の勉強をしているうちにお金にも働いてもらう、自分の時間を消費してお金に変えていっているということも学び、漠然と日々を過ごしている自分に気づきました。このままではあっという間に50、60代になってしまう、嫌な仕事で死ぬまで労働させられてしまうという危機感を持つようになりました。
なにおれさんのボイシーを聞いて物を捨てた
最近、一緒に暮らしていた犬が虹の橋を渡り、本当に大切なものは何か?ということを物を捨てることで(自分の把握できるもののみ)自覚することができました。ほとんどが必要なものでした。理想の暮らしや働き方を考えた時、もともと海に面した土地で暮らしていたため、海辺の近くで自然があり水が綺麗で食べ物も美味しい、朝早く農業をしながら釣りを時々する。家族、犬と暮らしながらインデックスファンドで投資、デイトレードを1割ほどしながらストレスのかからない環境で仕事を緩くしながら大切なものだけ大切にする。必要なものはそこそこあればいい。
ブログを始めた
理想の暮らしは最低でも3千万は必要です。そこで資産形成で増やし、倹約しながら満足度が高い暮らしを実現したいという思いを持ってます。そこで派遣で看護のバイトをしながらブログで副業をし10年後を見据えて今年から遅めですが動き出しました。長くなりました、要するに自由に看護師の仕事もゆるーくしたいと言うことです。
最後までご視聴ありがとうございました。じゃあまたねー。
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